◆SH1094◆企業法務への道(1)―拙稿の背景に触れつつ― 丹羽繁夫(2017/04/04)

企業法務への道(1)

―拙稿の背景に触れつつ―

日本毛織株式会社

取締役 丹 羽 繁 夫

 

《はじめに》

 イタリア・ルネサンスの文化・歴史の叙述で知られる歴史家ヤーコブ・ブルクハルトは、1893年75歳でバーゼル大学歴史学教授を辞したときに、「自分の一生から、知友の心にとどめておいてもらいたい最小限のデータを、歴史家の心をもって選択し」、自伝を執筆した。「NBL」誌石川編集長より「商事法務ポータル」への執筆を奨められたときに私の胸中に去来したのは、ブルクハルトに倣い、これまでに主として同誌に執筆してきた幾多の拙稿の背景に触れつつ、執筆当時の考え方を再確認し、今日的意義を提示することにより、少しでも後進の方々の参考になれば、との思いであった。

 

《丸山眞男論文「近世儒教の発展における徂徠学の特質並びにその国学との関連」との出会い》

 私は、1967年4月に京都大学法学部に入学し、1971年3月に卒業した。沖縄返還問題や70年安保闘争により、大学の内外には入学当時から既にざわめきがあった。私自身の当時の関心は、1967年秋の英国通貨ポンドの危機や、1968年5月の旧ソ連軍侵攻による短い「プラハの春」終焉とパリ・カルチェラタンでの学生占拠等に占められていた。京都大学でも、1969年1月に全学が封鎖されたが、封鎖自体は1969年4月以降の開講にはほぼ支障のない程度に収束されていた。封鎖されていた4ヵ月程の間、私は、本部キャンパス内の図書館に通い、時に法学部内の全共闘系の集会に参加する日々であった。

 かつて「戦後の進歩的知識人」の代表として多大の評価と尊敬を集めてきた丸山眞男教授が全共闘系の学生により「既成秩序の知識人」として当時激しい批判にさらされたことは、私には、大きな驚きであった。その代表例として、当時東京大学全学共闘会議議長をされていた山本義隆氏による下記の批判がある。

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丹羽 繁夫 (日本毛織株式会社取締役)

(略歴)
1948年愛知県生まれ。1971年京都大学法学部卒業後、(株)日本長期信用銀行に入行。同行法務部長を経て、2000年コナミ(株)法務部長、2003年同社執行役員(法務・知的財産本部長)就任。2008年財団法人日本品質保証機構参与、2013年日本毛織(株)監査役、2017年同取締役就任。

 「コーポレート・ガバナンスをめぐる法律上・規制上のフレームワーク」『米国のコーポレート・ガバナンスの潮流』所収(商事法務、1995)、「インサイダー取引規制の基礎となる重要事実の発生と認定」金法1545号(1999)、「ゲームソフトの著作物性をめぐる判例の展開と考察」(半田正夫先生古稀記念論集『著作権法と民法の現代的課題』所収、法学書院、2003)、「プロ野球選手のパブリシティ権をめぐる諸問題-東京地判平18・8・1が積み残した課題」NBL858号(2007)、「『ロクラク』著作権侵害差止等請求事件控訴審判決の検討-東京高判平21.1.27」NBL935号(2010)、商事法務タイムライン(2014年10月6日)「ヤフー事件判決(東京地裁平成26年3月18日)の争点と課題」、ほか多数。